【2003.04.26・・・No.23 からあげ・・・】 |
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私、パソコン始めて5年チョット。そう、五年以上前はゴチゴチの「パソコンなんかやるもんかぁ!」っていう調子、自称「手描き職人」だった。当時は季節の礼状書くにもカミさんに旧式ワープロで代筆してもらっている状態だった。それがあれよあれよという間にパソコン、インターネットにはまって、いまでは事務所内のネットワーク管理、CAD、画像加工にWeb制作まで何でもやる。いまウチの事務所が運営管理しているホームページの類いも常時7〜8サイト(半分はセキュリティーかけた非公開サイト)ある。設計依頼を請けるルートも9割以上が「ホームページ見ました」である。おかげさまである。
丁度、5年半前のフランスワールドカップのアジア予選やっている頃だった、仕事ネタも底をつき、困り果
てていた。どうせやることないんだったら、一丁パソコン覚えてみるかぁ、気の短い性格でマスターできるか不安一杯・・・と思いつつコンピューターの権威、昔の山登り相棒のNao君に「おい、一切合切で30万円でパソコン揃えてぇ、教えてぇ・・・」って頼んだ。ついでに、事務所内のパソコンや周辺機器のネットワークセッティングやらまで諸々面
倒みてもらった。さすが師匠、その師匠が手配してくれた最初のマシンが「Mac
Quadra950」の中古品(思いっきり改造チューンアップしてある)だった。このPower
Mac仕様に改造してあるQuadraの「ジャ〜ん」という起動音がなかなか荘厳な響き、姿カタチもゴッチリしていて「戦艦」を思い浮かばせてくれる、今の時代のMacG4なんかとはちょっと違う。ついでに「Sad
Mac」っていう知る人ゾ知るサウンド = Sad Macの音色をご存知の方、聞いたことのあるアナタ、二度と聞きたくないお気持ち、私にもよ〜くわかります。私のQuadraもSad
Macを奏でてくれました。Sad Mac 聞いたとき = それは愛おしいMacが破滅したときなのです。Sad
Mac 聞い日には何度再起動かけてもダメ、CD起動もできず、ひたすら泣きわめく運命なのです。そんなこんなで、最初の愛機であるQuadra950、今では現役リタイヤしているが、捨てきれず自分のデスクの下に大切に保管してある「思いでの逸品」になっている。
今日の賄いメシは・・・「鳥と子持ちワカサギの唐揚げ+ホウレンソウの胡麻和え+豆腐のみそ汁+雑穀入りご飯」ちゃんこ番は相変わらず6ppei@。あんまりカラッと揚がってなかったもんで・・・総合評価70点。
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【2003.04.13・・・No.22 タラノメ?・・・】
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昨日、仕事するの止めて建築探訪にいった。仕事がイヤになると突然スタッフともどもでかける。飯田の山奥にある妹島和世+西沢立衛設計の「小笠原資料館」を見に行った。長野の飯田地方は丁度ヤマザクラが満開の頃合い、なかなか風情のある田舎景色でよかった。「小笠原資料館」の感想・・・なんといってもスパン80mを15mピッチの6本柱のピロティ構造で支えているのには驚いた。シンプルなガラスの箱が桜の花と新緑に囲まれて美しい。こんな建築、まだ自分の腕では技術的にも造形的にも適わない、と思った。だけど、この建築のお守りは大変だろう〜なぁ、と思う。だって、こんな寒そうな山ん中で、たった10mm程度のシングルガラスの箱では思いっきり結露しそうだし(一体収蔵品は大丈夫?)、ガラスと床の隙間に落ちたゴミを吸い上げてソージするのもたいへんだろうなぁ・・・と思う。それと、悪いが展示品が少ない割には、それを展示・収蔵する建築・箱がデカイ気がする。建築の仕上げ(仕上がり感)もチープな素材が多い。そのおかげでオープンしてたった3〜4年で床のPタイルは歪んでしまっているし、外壁のペンキ塗りのボードは反り始めている。こりゃあ、果 たして10年もつかぁ〜って感じ。自分だったら?もっと建物規模縮小してでも、30年50年100年・・・と価値観が不変な材料(例えば石)を使って、確実に後世に引き継げる建築を創りたい、とエラソウに思ってしまった。職業柄、人様の創った建築見学するときは必ず「goodな部分5ヶ所」と「badな部分5ヶ所」みつけだすことにしている。
せっかく長野の伊那谷・飯田まできたもんで、帰りに名物「馬刺しとそば」でも食べたかった・・・適当なお店が見当たらずスゴスゴ帰路についた。帰りの車中「せめて季節の山菜、たらの芽や蕗の薹でも・・・」って助手席のスタッフに話しかけていたら「タラノメって食べられるんですかぁ???マグロの目って、食べられるのは知っていますけどぉ〜」????う〜ん、最近の若いモンは、よ〜わからん。
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【2003.04.13・・・No.21 Curry・・・】 |
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ネパールに行ったとき('86年=今から17年も前)のこと書き出したら止まらなくなった(先回ご覧になってない方はコチラをみてください)。ついでに日曜出勤してCurryまで作ってしまった。Curryはやっぱ一日寝かせてから食べた方がウマイ、明日の事務所の夕飯だ。
カトマンズではNao君の学生時代のヒマラヤ遠征時からの友人、通称「ビッケ」を紹介してもらい彼の経営するロッジ(安い)で4日程世話になる。ビッケはやたら英語が上手。何故そんなにに英語喋れるの?って聞いたら・・・彼のロッジに泊まるカナダやらアメリカ、オーストラリア辺りのイカシタ姉ちゃんを口説いていると、自慢していた(ちゃんとgetしているらしい)。そりゃあ英会話もうまくなるってもんだわなぁ、と感心した。そんなこんなでネパールの旅のフィナーレは深夜までネパールの友人達と酒を酌み交わしドンチャン騒ぎで締めくくった。騒ぎすぎて、悪性の風邪と酷い下痢を患ってしまい、名残惜しく帰国の途についた。ネパールからはタイ経由、バンコクで一泊して帰った訳だが、その間中ず〜っと酷い下痢と風邪の高熱で食事も殆どできなかった。大阪空港では検疫検査で引っ掛かり、さらに別
室連れられていって徹底的に荷物検査された。まぁイイ勉強になりました。
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【2003.04.12・・・No.20 ダルバート・・・】 |
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高校のワンダーフォーゲル同好会で始めた山登り、大学でエスカレートして冬山・岩登り覚えて、大学卒業後の20代の中頃が山登り熱のピークだった。岩壁登攀に冬山雪稜登攀、山スキー等々、一応エキスパート登山目指していた。当時の山登り相棒がNao君(後にNAO-HOUSEのクライアント、私の事務所のコンピューター師匠)で、彼は大学山岳部時代にヒマラヤの未踏峰初登頂も経験している、そりゃあエキスパートだった。その相棒に引っ張られ、夏は剣岳の岩壁登攀、秋は冬山の準備訓練で御在所岳でアイゼンつけての岩登り練習、初冬の中央アルプスのてっぺんの吹雪の中ビバーク訓練、お正月は鹿島槍ヶ岳の東陵、春5月は白馬岳のバリエーションルートからスキー担いで登頂〜頂上からスキー滑降・・・今思えば、目標とする山登りの2、3週間ぐらい前からは仕事にも熱が入らず(あまり熱を入れずに)仕事中も登攀のイメージトレーニングしていた、いい加減なヤツ、職場では浮いていた。
当時、ネパールヒマラヤの6000m峰の登山も計画していた。が、自分の技術・体力ではどうにも自信・踏ん切りがつかず、相棒のNao君には悪いが、6000m峰の登山は諦めてしまった。けど、ネパールのアンナプルナ・マナン地方へのトレッキングにいった。勤めていた事務所に3週間休暇もらっていった。トレッキングといっても最高標高5500mの峠越え、ハードな部類。日本を発つ一ヶ月ぐらい前から週に2〜3回、低圧タンクに入っての高所順応トレーニング。低圧タンクの中で徐々に4000m〜5000m〜6000mの気圧状態・低酸素状態をつくり、その中で2時間ぐらい自転車こいだりランニングマシーンやったりした。低圧トレーニング始めた頃、6500mの状況で自転車こいでいたらぶっ倒れ、結構死にそうになったりした。けど、実際のヒマラヤ5500mの地点の方が、はるかに死にそうだった。ヤバイ高山病状態、フラフラでまともに歩けない、メシも食えない、頭痛目まいで寝れん・・・かった。あの時は少しでも早く標高の低い所まで戻りたかった。おかげで素晴らしいヒマラヤの景色もあんまり覚えていないし、高山病状態では写 真も撮っている場合じゃあなかった・・・。日本の山登りの世界とはあまりにも違う。
初めていった外国がその時のネパール・世界の名だたる開発途上国、そりゃあカルチャーショックだった。ネパール入りして首都カトマンズには1日だけ滞在して、すぐさまアンナプルナの山奥まで飛行機チャーターしてトレッキングの開始。外国人がいきなりヒマラヤ山奥のそのまた奥のド田舎いったもんで・・・まず、食い物に困ったこまった。現地の食いモンに慣れるまでの一週間ぐらいの間、毎日毎日ゆでジャガイモとゆで卵、パンケーキしか食えなかった。あとの楽しみはカトマンズで買い込んだラム酒と「Old Par」だった。ひたすらヒマラヤ山中のド田舎を歩きまくる旅だった。そんな旅にも慣れてきて「現地の食べ物なんでもコイ」状態に開き直ってからは結構楽しくなった。
ネパールの基本定食「ダルバート」、ダルという豆をカレースープで煮込んだ物にご飯とこれまたカレー味風の漬け物みたいなものが定食になっている(学食のA定食よろしくステンレスのプレートにのっかっている)。その村々によって違うが、近くに川があれば川魚がダルのスープにはいっているし(要するに魚カレー)、鶏かっている村ではチキンカレー定食、羊かっていりゃラムカレー定食・・・。日本人からみりゃあ何食っても「カレー味」ばっか、だった。あと、食後はチベッタンティー、紅茶にヤク(というチベットの牛)ミルクと岩塩混ぜて竹の筒にいれてクチャクチャ混ぜたもの。これが不味くって慣れるまでひと苦労。
トレッキング中は山中の村の一般民家(バッティと呼ばれる日本で言うところの民宿←ワルイが思いっきりキタナイ)を泊まり歩いていた。家畜小屋みたいなとこにも泊まったし現地の家族の隅っこで寝たりしていた。おかげでダニやらシラミの類い、ヒルの類いともお友達になれた。そんな「ヒマラヤ山中ド田舎歩きまくる旅」に15日ぐらい費やしてネパールの第二の街ポカラにやっとの思いで辿り(歩き)着いた。久々の(多少の文明がかった)街が嬉しかった。とにかくキレイなバス・トイレとダニのいないベッド+ちゃんとしたメシのあるキレイなホテルに泊まりたかった。貧乏旅行にもかかわらず、思わず☆☆☆の「ポカラアンナプルナホテル」に一日だけ泊まってしまった・・・。
ってなことで、この話しは長々となりそうで・・・・いつかへと続く・・・・ PS:先々回の【2003.03.28・・・No.18 鰹・・・】 冒頭のラーメン屋話絡みのネタ「ラーメンが日本を救う?」っていうコラムおもしろかったです。 |