今日は自分にとっての「建築デザイン」について書く。
日頃から心掛けていることは「デザインするためにデザインしているんじゃあない」、訳のわからないこと言っている?ようだが・・・要するに「必然性のないデザイン」「わざとらしいデザイン」「目立とう、奇を衒ったデザイン」はしたくない、と思っている。だからクライアントさんから「あそこのお店にように、なんかこ〜うアールを使ってデザインしてみてょ・・・」ってこと言われると困惑する。「一見目先の変わったものやカタチ」をつくれば良いってモン
じゃあない。その場所、その空間に必然性もなく、目立とう・驚かそうとしているデザインは幼稚に思えるし、何よりも日々の生活の中ですぐに飽きてしまう、と思う。
建築デザインは「機能(=使い易さ)・強さ(=構造耐力)・美(=デザイン)」がそれぞれ十二分に満たされていて、初めて「良い建築」と呼ばれる。建築っていうのは特定の場所=敷地があって初めて成り立つ、でなきゃあ絵に描いた餅だ。そこんところが純粋芸術とは大きく異なっている。自分には芸術的素養があるとは思えないし、実際、デッサン・スケッチの類も下手で人にお見せできない。じゃあ、なにを根拠にして住宅のデザインを考えていくか?それは、ひたすら「生活し易さ=愉しい生活をデザインすること=生活するための器」を考える。敷地=その特定の場所に立ってみて「この場所だからこそこういうカタチだ」というものをひたすら考える。デザインの根幹をなす構造についても「木造だから、RC像だから・・・屋根がこうなんだ、間取りがこうなんだ」という発想はしたくない・・・その敷地だからこそ、こういう空間構成を実現したいからこそ、という構造的発想をしたいと常々思っている。
建築デザインにしろプロダクツデザインにしろ、良いデザインって一体どういうことなんだろう?・・・それぞれの機能、例えば生活すること、電話すること、自転車のること等々、機能の原型がストレートにどれだけデザインに反映されているか?
そういった部分を大切にしたデザインが、使い易くって良いデザインであると、私は思っている。建築は所詮「人が暮らすため器であり、生活の背景である」とも思う。その「器」がこれみよがしのデザインに溢れていてはすぐに飽きてしまう、愉しい生活が演出できないんじゃないか、と
思う。建築が完成した時点では控え目の「腹七分目」の空間でありたい、そこに人やら家具調度品が入ってきて丁度「腹十分目」住まう人の個性が演出できる、と思う。
自分が個性的であるともまだ思えない。創ることに一生懸命になって、本人にはかえって気づかぬ
、どうしようもなく滲んでしまうようなものが「個性」であると思う。私も、そうなれるようひたすら修練の日々、ではある。
ウチの事務所もスタッフを抱え、BOSSの私がいちいち自分の手で直接で設計や監理しなくても、スタッフに指示するだけで仕事としては成立できるかもしれない・・・。
でも、相変わらず細かい部分まで自分で押さえて仕事やらなきゃあ満足できない。今は、単純に建築デザインの仕事が好きだし、そのことが「創る」ことの根源的なパワーになっている。建築デザインっていうのは、技術力のたゆまない研磨が必要だし、と同時に創り手の人間性等々色んな面
が反映されてしまう。だから建築デザインが面白いと思えるし、この先20年経ってもスタッフに任せきれず、細かい部分まで自分で設計やっているいる、と思う。私には、見栄えの良いスケッチと口先の指示だけでは建築が創れないし、そういう手法で創ったとしてもて人々の共感は得られない、とも思っている。
今日は、『Sz-residence』クライアントのSzさん宅に、宅内LANの設定にいってきた。Szさん達もご夫婦でMac信者である。同じ信心仲間としての「Mac駆けつけお助けサポート」である。私が1998年にパソコン始めたとき、友人のNao君始め、様々な先輩方に手取足取り、パソコン設定LAN設定のお助けいただいた。彼ら先輩・友人のサポートお陰様、かなり短期間でMacをマスターでき、仕事にもフル活用できるようになった。自分もMacのことなら、ひととおりウンチク語れるようになった。今度は、自分がお返しする番である・・・。
Szさん宅の宅内LAN設定の、思ったより早く終わり、昼食をゴチになった。自分が設計させていただいた空間でメシ食えるのも幸福なモンである。建物完成の頃は、ガラーンとした「腹七分目」の空間であったが、人やら家具やら、生活雑貨が入って丁度「腹十分目」の生活空間、住まう人の適度な生活感と建築空間がバランスよく収まっている感じ・・・おまけにサラウンドSPからはクラッシック音楽まで流れて・・・絵に書いたような、うらやましい限りのお宅でした、チャンチャン。
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